2012年02月23日(木)

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように』」ルカ1:38


「はしため」とは女奴隷だ。しもべであり、主人ではない。主人は御父だ。であるなら、奴隷は、主人に絶対服従だ。奴隷が、自分が納得したから、主人の言う事が信じられるから従うだろうか。しもべは、自分が理解できようが、できまいが、納得しようがすまいが、主人の言う事に従う。

マリヤは、自らをしもべだと言った。御使いの言葉を、すべて理解できたわけではないが、主が言われるのなら、従いますと応答した。自分自身も、自分の生涯も、結婚もヨセフも、何もかもを主に委ねた。この後、どうなるかわからない。深刻な、厳しい問題が立ちはだかっているだろう。

聖霊により妊ったなどと、ヨセフが信じられるわけがない。そうなら誰かの子供を妊った事になる。家族、周囲の者は何と言うだろう。結婚前に妊るなど死刑だ。様々な思いがあったろう。しかしマリヤは、まさに「この身に」と、自分自身を差し出して従った。

そしてエリサベツに会った時に、神を喜びたたえ、人々も「私をしあわせ者と思うでしょう」と言った。マリヤは喜びに溢れ、しあわせに満たされた。地位、能力、財のある女性ではなく、「主のはしため」とへりくだったマリヤを用いられた。私たちも御声を聞き、自らを明け渡して従う時に、主は素晴らしい栄光を現して下さる。
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悪い主人にさえ僕は従わなければならない。ましてや私達が従う神は、良きものしか与えられないのに先の先まで理解できてからと、いつまでも踏みとどまっていて、いいだろうか。マリアの素直で強い信仰に習いたい。