2013年04月24日(水)

「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた」マルコ11:13 


当時、道に生えた野生のいちじくは自由に食べていた。主がいちじくを食べようとしたが、葉のほかには何もなく、実がなかった。「いちじくのなる季節では無かった」ので、当然と言えば当然だが一つの実も無かった。いちじくはイスラエルの象徴であった。エレミヤ書でも「この良いいちじくのように、わたしは・・良いものにしようと思う」「わたしは、良くするために彼らに目をかけ」と。

立ち返るようにと熱い愛を注がれたに関わらず、「葉のほかに何もない」と、ユダヤ人への嘆きだった。宗教指導者たちが、メシヤを受け入れない事への警告であり、さばきであった。細かい儀式は、きっちり行なうが、その心は神から遠く離れている。形式はあるが中身がない。葉ばかり茂って実がない。祈りの家が強盗の巣になっている。イスラエルの現実であり、生きた信仰がない事実を教えようとされた。

そして「神を信じなさい」と、信じるなら、山をも動くと、生きた、真に実を結ぶ信仰について語られた。山は不動のものであり、動くわけがない。しかし、主を信じ、祈りが聞かれると信じて行く時、私たちが不可能と思っている、絶対に無理、どうにもならないと思っている、その目の前の山が動くと。あなたの山は何だろう。その時に、「赦さない心」が大きな妨げとなる。赦さない心があるなら実を結ぶことができない。赦すべき相手があれば、御霊に助けていただこう。
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祈っていて心に赦せない裁く思いに気づいたら「赦せますように」と祈ろう。主よ、主よと祈るが祈りの時が実のない習慣ではなく、真実に自分自身を主に明け渡せるよう、信仰を献げて祈りたい。