2013年07月25日(木)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4


信仰生活において、自分の力でなく、御霊に導かれて歩んでいるなら、一つ一つの事柄が、決して重荷とはならない。辛く感じない。なぜなら、律法の下にはいないからだ。何か重苦しくて、しんどくて、イライラしているなら、肉によって歩んでいる。御霊の中ではなく、肉の中にいる。何かが違うと感じるだろう。そんな時は立ちまって、主の御前に出て、祈ろう。心を打ち明けながら、主と交わろう。自分の力で歩んでいると気づいたなら、そのつど主に明け渡して行けばよい。

すでに古い人は十字架でキリストと共に死んでいる。しかし、自分の思いと自分の力で歩む時、律法の下に自分を置く事になる。その度に、主を見上げるなら、再び律法ではなく、御霊の導きのもとに自分が置かれる。ある婦人は家事に育児に仕事にヘトヘトだった。しかしどうしても、庭の草取りが必要で、それは子供の昼寝の時間しかない。うんざりだが、それを主との交わりの時間にした。

イライラした心の内をことごとく告げ、心配事や思い煩いを告げ、気持ちを話し、一つ一つ委ねながら、草取りをしていると、心に平安が広がって行った。終わる頃には、庭は綺麗になり、自分の心も感謝と喜びに溢れていた。そのつど、主を見上げ、交わり、明け渡して行く時、御霊のもとに置かれる。今、自分の力で歩んでいるなら、そのままの状態を主に告げよう。新たにされる。
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自分の可能性に立っているので上手く行けばたかぶり、そうでなければしんどくなり、やっと自分が自分のためにしていたと気づく。主を見あげ、主の助けを信じて主にある喜びによって歩みたい。