2014年01月25日(土)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪 のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる ため・・」ローマ6:6 



よく聞く例えだ。ある女性の夫は完璧主義者で、とにかく細かく
几帳面だった。毎日、家の隅々まで点検し、ほこりやゴミがあって
はならない。掃除の仕方にいちいち文句を言う。洗濯の仕方、干し
方、文句の無い日はない。料理など、素材、味付けから、料理方法、
その欠点を一つ一つ指摘する。

妻のする事が、何もかも不足で気に入らない。やがて、彼女は毎日
夫の顔色を見ながら、萎縮し神経質になり、恐れビクビクしていた。
喜びが全く無かった。心は苦しい。そんな時、隣家の男性が通りか
かり、重い荷物を運ぶのを助けてくれた。彼は大変親切で、気遣い
をしてくれ、優しい言葉をかけて、いつも助け励ましてくれた。

彼といると心は喜びで一杯になり、同時に安堵で満ちた。この人が
夫ならどんなに良かっただろう。しかし、今の夫と離婚したいが無
理だ。どうすればよいのか。もし夫が死ぬなら、結婚の契約は解除
になる。しかし、夫は丈夫で決して死にそうになどない。

これがローマ7章で言っている事だ。夫が律法で、妻が私だ。常に
要求されて、責め立てられ、しかし自分に力が無く、実行できず苦
しくてたまらない。律法が死ぬ事はあり得ず、律法はずっと存続す
る。唯一解放される方法は、律法が死ぬのではなく、自分の方が死
ぬ事だ。死により契約は解除される。

そして隣の男性がキリストで、キリストと一つになって生きて行く。
これが主が十字架でして下さったことだ。古い私は十字架で死んだ。
律法に対して私は死に、解放され、キリストと共に喜びと安堵で生
きて行く。

・・・・・・・・・・・・・
律法でがんじがらめで、苦しくてたまらない私たちのために、主は
十字架で解決を与えて下さった。「私はキリストと共に十字架につ
けられた」この事実を、今朝も堅く信じて、告白して歩んでゆこう。
「もはや私でなく、キリストが」今日の歩みも成し遂げて下さる。