2014年04月24日(木)

「舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった・・彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」マルコ6:51

湖の上を歩いて、弟子たちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見ておびえてしまったからである」なぜ、主が幽霊だと思ったのだろう。「その心は堅く閉じていたからである」とある。心が堅く閉じていたからだと。主を見ても、主だとわからなかった。認識できなかった。

まず、主が湖の上を歩くなどと、発想も考えもなかった。「彼らの心中の驚きは非常なものであった」なぜ主が湖の上を歩くはずがないと思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、人だとしか思っていなかった。主を正しく認識していなければ、間違っていれば、助けを受けることができない。

主を小さく見積もってしまうなら、様々な目の前の悩みや問題に、「これがどうにかなるなどあり得ない」「これは無理」「難しい」と決めつけ、不信仰の暗闇に落ち込んでしまう。嵐に飲み込まれ、沈みんでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどうだろう。この程度なら、主も可能だろうが、こんなに難しければだめだと、自分で判断し、思い込みがないか。

「いくら主でもこれは無理」との思いが心の底に無いか。それこそが心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づかれてもわからずに、主を恐れ怯えてしまう。主に心を開く時、全能の主がかたわらにおられるに気づく。問題に主を迎える時、風がやむ。平安が来る。
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主に無理なことなどないと祈っているのに、この問題はまずこの辺りから・・と選り分けながら祈る自分に今朝気づき、主に大胆に祈り直した。堅く閉じている自分の限界、不信仰を悔い改めたい。