2016年04月24日(日)

「神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御 顔を避けて園の木の間に身を隠した」創世記3:8


エデンで罪を犯したアダムとエバに、神は「あなたはどこにいるの
か」と、問われた。それは、神に従わなかったアダムとエバが、出
て来れるようにとの神の愛であり、配慮だった。悔い改めの機会を
与えられた。隠れていたアダムは見つかり、木の間から出て来た。

神の問いにアダムの答えは「私は裸なので、恐れて、隠れました」
であり、謝罪の言葉は一言も無い。神の命令に反した事よりも自分
が裸で恥で、恐れを感じている事の方が重大だった。アダムの心は、
罪が入り、変化が生じた。神ではなく、自分の事、自分のプライド、
体面、自分の思い、それらが何よりも重要になった。

神は、尚も悔い改めの機会を与えられた。神は、もう一度問う。
「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたの
か」と。この問いの答えは「はい」か「いいえ」しかない。神は、
罪に正面から向き合い、認めるように、この問いをされた。しかし
アダムの答えは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、私にくれ
たので、私は食べた」であった。

「ごめんなさい。私が食べました」と謝る事ができた。だが自分を
正当化し、エバに責任転嫁した。それだけでなく「あなたが私のそ
ばに置かれたこの女」と、こんな女を置かれたあなたが悪いと、神
にまで及んだ。罪を認めず、言い訳し、自己正当化し、周囲に責任
転嫁する。これが罪の結果だった。自分自身にある古い性質だ。

しかし神は、そのために十字架の赦しを用意された。悔い改めの機
会を与えて下さる。その神に向き合い、応答しよう。

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肉は、自分の罪を認めたくない。「ごめんなさい」を言わない頑な
な態度がある。言い訳は幾らでも出て来て、自分を正当化してしま
う。しかし、そうすると、どこまでも正反対の方向へ向かう。主の
声に耳を傾け、言い訳せずに悔い改めて行こう。