2017年09月24日(日) 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におさ さげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ 行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘ ブル9:14
「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におさ さげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ 行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘ ブル9:14
人間には良心が与えられていて、その良心は、罪を犯すと、とがめ を感じる。そのとがめを何とか消したいがために、善行をする。例 えば、言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心がとがめ、平安が 保て無いので、親切な行いを返す。そして、プラスマイナスゼロに する。これで良心をなだめて良しとする。誰しもに経験あるかも知 れない。 しかしこれは、心がとがめるのが嫌で、自分の良心を何とかしたい だけで、神への愛や、相手への愛などまるで無い。自分の事だけで、 自己中心だ。ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕し たり、献金している事に気づかされた。神のために良い事をして、 自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをする。神に認めてもらおうとする。 そして偽りの平安を得る。人は知らぬ間に、これを繰り返している 事がある。これは「邪悪な良心」だ。善行で、神に受け入れてもら おうとの態度だ。そうであれば、主の十字架は無意味になる。この 良心はきよめられる必要がある。 それはただ十字架の血潮によってだ。神に行ないで受け入れてもら おうとの、死んだ行ないから離れさせてくれる。主の血によって良 心はきよめられ、赦され、どんな時も恐れなく御前に行ける。自分 の行ないではなく、主の血に拠り頼もう。 ・・・・・・・・・・・・・ 罪を犯した時に、主への悔い改めでなく、善行によって、悪い行な いをチャラにしてしまおうとする。「ごめんなさい」だけは言いた くない。しかし神が喜ばれるのは、悔い、砕かれた心だ。十字架の もとへ行き、血潮で赦しきよめて頂く事だ。この赦しにあずかろう。