2017年11月24日(金) 「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ43:3
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ43:3
ある人が長年第一線で、営業マンとしてバリバリ働いていた。コン スタントに契約が取れ、営業成績もトップクラスだった。しかしあ る時、仕事上で失敗をし、そこに難しい対人関係のストレスも絡み、 とうとう身体をこわしてしまった。止むなく退かねばならなくなっ た。 その時に、ひどく落ち込んだ。仕事が出来ていた時は、自分が価値 ある人間と思えていたが、出来なくなった時、自分の価値を認めら れなくなったのだ。精神的苦痛であり、どうやっても受け入れ難い 事だった。弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが、無駄だっ た。 又、その仕事上の大きな失敗を、人のせいにしようとしている自分。 人をどうしても赦せない自分に苦しんだ。心が悶々状態で、苦しく てどうにもならず、主の御前に出た。御前に静まり、何もかもをこ とごとく打ち明け、気持ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。 十字架が迫った。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をして いるのか自分でわからないのです」この箇所は今まで他人事だった。 その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事がわかった。主の 赦しの愛を全身に受け取った。そして主は完全に赦し、受け入れて 下さっているのに、自分が自分を赦し、受け入れていない事を示さ れた。 主の赦しを受け入れた時に、嬉しくてたまらず、心が平安でいっぱ いになり、喜びに溢れ、人をも赦す事ができた。そして何が出来な くとも、このままの存在を受け入れて、愛し続けて下さっている主 の愛に癒された。この仕事上の大失敗も、病気も、万事益で、この 主の愛と赦しを知るためであった事に、心から感謝した。 ・・・・・・・・・・・・ この世の価値観、根深い古い価値観があって、何かが出来る事に価 値を見い出そうとする。又、人と比較し、人より秀でようとするの も、自分を認めて欲しいから。だが主の十字架を仰ぐ時に、それら は必要無く、愛されていること、大切に思われていることを知る。