2019年07月25日(木) 「見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハム は行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに全焼のいけ にえとしてささげた」創世記22:13
「見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハム は行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに全焼のいけ にえとしてささげた」創世記22:13
アブラハムは、自身が100歳、サラ90歳の時にイサクを得た。約束 を待つこと25年、気の遠くなるような長い時間だ。彼らも私たちと 同じ弱い人間であり、数々の失敗があった。神の時を待ちきれずに、 肉の思いと手段で、イシマエルを産み出してしまった。だがヘブル 11章によると、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。 そして「信仰の父」と言われている。後にその愛する子イサクを献 げよとの命令を受けた時に、大きな厳しい試練であったが、アブラ ハムは従順に従った。その彼に「あなたが、このことをなし、あな たの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大いに祝 福し」と主から祝福を受けた。 だが、25年も待ちに待った目に入れても痛くない最愛の子だった。 そしてこのイサクから子孫が増え広がるはずだ。この事はどうなる のか。イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた時に、彼 は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事において神を全く信 頼した。しかしいけには無く、イサクをいけにえとし、まさに刀を 振り下ろす瞬間だった。 主が介入し、止められた。そしてそこには羊が備えられていた。こ れは彼も知らなかった事だ。私たちも一歩先は見えず、明日の事も わからない。しかし神は知っておられる。一歩一歩をこの神に信頼 し委ねて歩を進める時に、一生涯の間、「主の山の上に備えあり」 を絶えず経験して行く。素晴らしい恵みの人生だ。 ・・・・・・・・・・・ 先は全く見えないが、そこを主を信じて、見えない中、一歩を踏み 出す時に、主の備えを経験する。信仰によって歩を進める時に、経 験するのであって、踏み出す前ではない。従うために一歩踏み出そ う。主の山の上に備えありを、経験し、知って行く日々とされる。