2019年08月25日(日) 「だれでも、私につまずかない者は幸いです」マタイ11:6
「だれでも、私につまずかない者は幸いです」マタイ11:6
バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の罪を、はっきりと指摘した。ヘ ロデは自分の妻を追い出し、弟の妻を妻としたためだ。その結果、 ヨハネは、投獄されてしまった。正しく不義を裁く主は、ヘロデを 罰っされるのではないのか。無実の自分も牢から出されるのでは。 しかし投獄後、全く何も起こらない。又、ヨハネが思っていた主と、 牢の中で、弟子から伝え聞く主の姿が違っていた。「手に箕を持た れ、殻を消えない火で焼き尽くされる」、悪を裁く正義の審判者で あるメシヤを思っていた。が、悪を懲らしめる審判者でなく、人を 慰め、病人を癒し、罪を赦している。 そのためヨハネは戸惑いつまずいて、弟子たちに「おいでになるは ずの方は、あなたか。そうでなく、別の方を待つべきか」と問わせ た。主は、その弟子たちに「自分の聞いて見ていることを報告せ よ」、つまり目の前の「事実」を伝えよと言われた。 「盲人が見、足なえが歩き〜〜」これらは、メシヤ到来のしるしだ。 旧約聖書の預言の成就だ。「わたしにつまずかない者は幸い」とヨ ハネに託された。これらの事で判断せよと。そして、主はヨハネの ことを、「預言者よりもすぐれた者。女から生まれた者の中で、バ プテスマのヨハネよりすぐれた人はいない」とまで言われた。 主はヨハネを正しく認め、評価し、愛しておられた。ある人々は剣 の刃を逃れ、ある人々は殉教した。皆、道は異なり、それぞれに託 された御旨があり、総決算はこの世ではなく、天にある。真摯な疑 問は、直接、主に聞けばよい。主はその問いに答えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 主は一人一人に、全く別の御心を持っておられる。隣の人とは違う ので比較ができないし、隣は関係がない。主を見上げよう。主のご 愛、真実を信じて、そこからぶれないでいよう。そして心に疑いが 起きる時は、直接主にありのまま持って行こう。