2019年11月24日(日)

「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したく ない悪を行なっています」ローマ7:19


律法とは、神の戒めだ。「偶像を造るな、拝むな」「御名をみだり
に唱えるな」「安息日を覚えて聖とせよ」「父母を敬え・殺すな・
盗むな・姦淫するな」等々。「神を愛し、隣人を愛せよ」「敵を愛
せよ」「迫害する者のために祈れ」「復讐するな」「悪口を言う
な」数え切れないほど様々ある。律法はすべて正しい。

しかし肉の私たちには、正しく良いものである事はわかるが、それ
を行なう力が無い。パウロが言うように「貪るな」と言われると、
罪の性質がむくむくと出て、返って貪りたくなる。律法により貪り
が引き起こされる事になる。

ある人は植木鉢が余りに盗まれるので「植木鉢をとるな」と張り紙
をした。すると更に次々と盗まれ、とうとう張り紙をはずした。
「盗るな」と言われると、盗りたくなるのが罪の性質だ。「勉強し
ろ」「手伝え」と言われると反発する。肉には逆らう性質がある。

救われた当初は、喜びで一杯だが、その内、信仰生活が辛くなって
来る。窮屈でしんどくなるのだ。今まで感じなかった「罪」がわか
って来る。なかなか祈れないし、聖書もそんなに読めるものでない。
証しなど出来ない。段々色々と重荷になって来る。善をしたいとは
思うが、実行する力が無い。どれだけ頑張っても出来ない、不可能
だ。

自分の惨めさ、無力をとことん味わう。しかしそここそが恵みの場
所だ。その時にこそ、真に神の恵みと力、救いを経験する。神にギ
ブアップし、自分を渡す事だ。その時に、御霊によって歩むという
事を知らされる。自分の力でなく、御霊が働かれ、一つ一つが成し
遂げられて行く事を経験して行く。

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信仰生活は、戒めに従えない、どうやっても御言葉に従えない、愛
せないし、どれだけ頑張っても赦せない、それがわかる事が入門で
あり、そこから始まると言われている。そのままを祈り、主と交わ
ろう。御霊によって歩むことを教え、取り扱って下さる。