2022年05月25日(水)

「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にか なった者で、わたしのこころを余すところなく実行する」使徒13:22




U歴代のアサ王の箇所で、主は、心が主と全く一つになっている人
に、御力を現わされると出て来る。ここで落胆してしまわないだろ
うか。とても主と全く一つになどなっていない・・。無理だ・・。
罪ばかり犯し、弱い自分・・そんな事は不可能に思えてしまう。

だが、主と一つになるとは、誰しも自分の思い、自分の願い、自分
の計画があるが、それを祈りの中で、軌道修正し、主のお心に合わ
せて行く事だ。自分の方が、変えられて行く事だ。自分の思いでい
っぱいだったものを、主のみ思いに沿わせて行く、その時、主の御
心を行なう者とされる。そしてダビデを通して学べる。

ダビデは主から「彼はわたしの心にかなった者」と言われた。主と
一つだ。しかしダビデはどうだろう。バテシバとの姦淫、そしてそ
の夫のウリヤ殺害という重罪を犯してしまった。そんなダビデだ
が、
ナタンにより罪を指摘された時に、罪を認めて、悔い改めた。王で
あるダビデが悔い改めた事は、主の御前でのへりくだりだった。

主と一つであるという事は、決して罪を犯さず、完全になるという
事ではない。そんな事は誰も不可能だ。弱さゆえに、どうしても罪
を犯してしまうが、その罪を認めて、悔い改める時に、主と一つだ
と言われる。御霊は罪を示して下さる。それは大きな恵みだ。赦さ
れるためだ。悔い改めて、悔い改めて歩もう。
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祈りも悔い改めも、主の御霊に導かれなければ決してできない。い
つも主と一つだ。赦しを受け取り、また新しく歩んでいける。なん
と感謝な歩みだろう。へりくだり主と共に生きよう。