2022年07月25日(月)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は 見えるということです」ヨハネ9:25



主は、盲目なら罪は無かったが、「見える」と言うから「罪は残
る」
と言っている。安息日に病気の手当をするなら、仕事と見なされ、
パリサイ人達は、主が律法を守らないと断罪した。「安息日を守ら
ないのだから、神から出たのではない」と。彼らは神の言葉でな
く、
人の言い伝えの方を大切にした。

そのため盲目であり、神の言葉が見えず、わからない。主は「わた
しは、さばきのために来た。見えない者が見えるように、見える者
が盲目に」と。パリサイ人は「では、私達は盲目なのか」と不快感
をあらわにした。もし、そこで彼らが「見えない者です」と言えた
なら、大きな恵みと祝福にあずかれたろう。

しかし彼らは、自分たちは見えると思い、盲目である事を認めず、
自らの間違いを認めなかった。私達はどうだろう。目に見えない世
界を見るために、まず自分が盲目である事を知る必要がある。そし
て自分は見えていない者だと認める事だ。それはへりくだらなけれ
ばならず、これが最も難しい。

認めるためには信仰が要る。「見えていません」と認めた時に、主
が見えるようにして下さる。「目の見えない者が見えるようにな
り」
と。主ご自身が盲人に近づかれて「信じるか」と問われ「その方を
知りたい」と彼が願った時に、「あなたと話しているのがそれだ」
とご自身を現わされた。すると「信じます」と言い、主は、彼の霊
の目も開いて下さった。
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見えていると思う高ぶりが目を覆ってくる。主に救われ義とされた
者がいつの間にか自分を主張し主の恵みを無駄にしてしまう。霊の
目を日々新たに開らかれ、大切なものが見えるようになりたい。