2023年02月22日(水)

「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、 幽霊だと思い、叫び声をあげた」マルコ6:49



弟子たちは、主に「強いて」、無理やり舟に乗せられ、湖にこぎ出
た。すると深夜に激しい嵐に悩まされた。すでに湖の真ん中に出て
いたので、岸にも戻れず、悪戦苦闘していた。真っ暗闇の中で厳し
い状況にどんなに恐怖だったろう。その時、湖上を歩いて来られた
主を、幽霊だと怯え、余りの恐怖に叫び声をあげた。

皆、主を見て、怯えてしまった。なぜ、主を幽霊だと思ったのだろ
う。「パンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていた
から」だとある。心が堅く閉じていたことが原因で、主を見ても、
主だとわからなかった。

心の問題だった。なぜなら、主が湖の上を歩くなど、予想だにしな
い、有り得ない、考えられない事だった。「彼らの心中の驚きは非
常なものであった」。弟子たちは、主は、偉い先生で、人間だとし
か思っていなかった。パンのこと、五千人の給食の奇跡から、何を
悟るべきだったのだろう。

主が、人となられた、まことの神であるということだった。しかし
主が、神だとは理解できなかった。私たちもどうだろう。主を正し
く認識していなければ、助けようとして来て下さっても、わからな
いので、受け取れない。不信仰は、信仰を押さえ込み、信仰の力を
削いでしまう。主は、罪を赦すと言われる。主は赦して下さる、主
には出来ると信じるなら、失敗しても悔い改める時に、喜びと平安
が戻る。

だがもし信じなければ、赦された気がしないとばかりに、恐れと不
安にさいなまれる。心はどうだろう。閉じてしまっているだろう
か。心を開いて、受け取って行けるよう、祈ろう。主が心を導い
て、助けて下さる。
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鈍い、閉じた心はすぐに主も素晴らしい御約束も見えなくする。
自分の狭い思いをはるかに超えた存在であるの主が、波風の中を
渡って来られる。主を呼び、主を見つめていよう。