2024年01月25日(木)

「元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は 神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げら れます。」使徒27;25



パウロは主から、エルサレムで証しをしたように、ローマでも証し
をするよう、ローマ行きを示されていた。するとその通りに、パウ
ロの思いとは異なり、囚人としてではあったが、イタリヤ行きの船
に乗る事になった。それが強風のために進めず、良い港という所に
着いた。パウロは、もう季節的に航海は危険だと主張したのだが、
百人隊長により、クレテの港へ行き冬を過ごす事になった。

すると何日も続く激しい暴風に会い、船はほんろうされ、積み荷を
捨て、船具まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、もはや絶
望的で、最後の望みも断たれようとしていた。だがパウロは「命を
失う者は一人もない。失われるのは船だけ」と確信に満ちて告げ
た。主は、信仰人生、失うものは何もないとは言われない。ヤコブ
も「私も、失う時には、失うのだ」と言った。

私たちは、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は取られ
る。主の御名はほむべきかな」と。ヨブは、主は与えられると同時
に、取られるとも証しした。しかし失う事はあっても、必ず私たち
は、堅く守られ、信仰の生涯を全うする事ができる。船を失う事は
あるが、信仰人生は必ず守られ、確実に安全な島に打ち上げられる
事を覚えよう。

誰しも得る事は嬉しいが、失う事は嬉しくなく、痛手だ。だが振り
返る時、あの時、この時の損失、大きな心痛だったが、それにより
自分自身が練られきよめられ、成長させられたのではないだろう
か。痛手を通ってこその、今の自分がある。実際に、色々な形で損
失を通るが、思いを遙かに超えた祝福に至る。船を失う事はある
が、いのちは守られる。
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特別な取り扱いは大きな苦痛であっても主に最も近づけられる時
だ。必ず主は守ってくださるとパウロのように言おう。失うことが
あっても主は新しい祝福も備えていてくださる。