2024年08月25日(日)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿 をとり・・」ピリピ 2:6



ある人が、職場で対応が難しい相手がいた。話すと、どうしても意
見が合わず、ことごとく反対しているのでは、と思ってしまう。相手
にトゲを感じ、話すことも苦痛になり、心が重く、主に祈り始めてい
た。祈っていると、相手の欠点ばかりが目につき、そういう見方し
かしていない自分に気づかされた。

相手が悪いと、絶えず相手を責めて裁いていた。相手にトゲを感
じていたが、トゲを出していたのは自分だった。丁度、学び会で「高
慢」について学び、その中で「ご自分を無にして、仕える者の姿をと
り」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われ
た」キリストのへりくだりに、心が刺された。自らの高慢、プライド、
愛の無さを、嫌というほど示された。

悔い改めて、自分には無い、へりくだりを与えられるよう祈った。自
分には不可能と祈り続けていた。そんな時、相手と打ち合わせが
あったが、不思議が起きて、嫌な気持ちが無かった。いつもは嫌で、
仕方が無かったのに。話していた時、相手との関係が変化している
事に気づかされた。

和やかに対話でき、自分のトゲが消えていた。こちらが心を開いた
ので、相手の態度も変わってしまった。対人関係は、どちらかが変
わると、変わると言われているが、驚いた。これらの事は、全く自分
には不可能で、まさに御霊の働きであった。祈りに持って行こう。

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へりくだること、愛すること、自分を捨てることは、自分では不可能
だ。自我は対極にある。自分、自分で、どこまでも自分だ。御霊に
よってのみ、造り変えられる、そして与えられた愛で愛して行ける。、
まず現状を祈りに持って行こう。必ずみわざをもって導いて下さる。