2025年04月24日(木)

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子 たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった」 ヨハネ21:1


ペテロと弟子たちは、主が捕らえられた時に、主を裏切り、否み、
逃げてしまった。その後、主の指示で、ガリラヤに戻った彼らの
心は、どんなものだったろう。死んでも従うとのペテロの自信は、
こっぱみじんに砕け散った。空虚で、何のなすすべもなく、一度
捨てた漁師の網を、もう一度取り、漁をする。

他の弟子たちも従う。しかし何もとれない。心は深い無力感、痛
み、後悔、落胆、虚無、挫折感だったろうか。夜明け頃、岸辺の
見知らぬ人が「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と叫ん
だ。声の主は、不明なまま、「はい、ありません」と、ありのま
まを答えた。すると直ちに「舟の右側に網をおろしなさい。そう
すればとれます」との声。

その声の言う通りに網を下ろした。すると、何と驚くべき大漁だ
った。以前にあった全く同じ光景を思い出したヨハネは、瞬間、
「主です!」と叫んだ。ペテロは、主のもとに行きたい一心で、
湖に飛び込んだ。岸に上がると、そこに主がおられ、魚とパンの
朝食が用意されていた。なぜ、裏切ったのか」と、一言も言われ
ず、叱りも、責めもされない。

ペテロの3回の裏切りは、「わたしを愛しますか」の3回の問い
により、深い傷がおおわれ、癒されて行った。そして「羊を飼い
なさい」と、牧会の働きを委ねられた。「神の御心に添った悲し
みは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる」。罪は赦
され、信仰を回復させて下さる。弟子たちへの深い慈しみとご愛
は、私たち一人一人へも同じように向けられている。
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問題に出会うたびに、醜く不信仰な自分の姿を知ってしまう。そ
れでもさらに強く主に結びつけられるのは、主の深い愛と赦しの
ゆえだ。主のあわれみは尽きない。