2025年10月25日(土)

「・・そしてまた、『この人は、ヨセフの子ではないか。』と彼ら は言った」ルカ4:22



主が、生まれ故郷であるナザレに行かれた。そして安息日
に会堂に入り、教えられた。イザヤ書を読まれ、「・・貧しい
人々に福音を伝えるようにと。捕らわれ人には赦免を、盲
人には目を開かれ事を、虐げられている人を自由にし・・」と。
それは、主の奇跡だ。そして「今日、聖書のこのみことばが、
あなたがたが聞いたとおり実現した」と。

何千年も前からの預言が、今日実現し、メシアが今、ここにい
ると。聞いた人々は皆、主の口から出る恵みの言葉に驚き、
感動し、主を誉め讃えた。しかし同時に「ヨセフの子ではない
か」とさげすんだ。ナザレは小さな村だ。そこでは、人々は、主
は人間ヨセフの子、大工としか見えない。人間的見方でしか見
えず、信仰の対象ではなかった。そのため主から、神の言葉
を受け取れなかった。

「ヨセフの子、大工」との言葉は、人々の心から恵みを奪い、冷
ややかに消す。信仰を否定する。メシヤとして受け入れないの
で、御言葉を入れず、信仰が生まれる事が無かった。預言者
は誰でも、自分の郷里では歓迎されないと、主は人々の不信
仰を嘆かれた。私たちもどうだろう。

自分の価値観、自分の見た目、自分の判断で、御言葉に対応
する時、同様に受け入れる事ができない。御言葉を肉で判
断する。「そんな事、無理で、不可能で、信じられない」「世では
どう思われるだろうか」。自分の肉の思いの方に立ってしまう。
そこに気づけるように、肉でなく、御言葉の方に立てるよう、不
信仰でなく、信仰を選択できるよう祈っていよう。助けて下さる。

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不信仰な言葉は、自分だけでなく、周囲にも不信仰を伝染さ
せる。恵みをきれいに消してしまう。サタンの策略だ。外に出
る言葉だけでなく、内の思いの中でも、同じ事が起きている。
御霊により不信仰とサタンに気づき、信仰へ向きを変えよう。