2006年08月25日(金)

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10



一体何のために信仰しているのか、
よく考えてみる必要がある。もし、
信仰が何かを得るための「手段」
なら、自分の欲しいものを得たな
ら、もう信仰は必要無くなってし
まう。又、手段であれば、どうし
ても欲しければ、他の手段でも良
いわけだ。サタンが、私を礼拝す
るなら、すべてを与えようと言っ
た、その誘惑に乗ってしまう。
目的のものを得られるなら、別に
何でもよいのだから。
しかし、主イエスにとっては、神
を礼拝する事は、手段でなく「目
的」であられた。このところが重
要だ。もし、信仰が、より良い人
生とか、より精神的に高尚な生活、
道徳的生活、心の満たしのための
手段だとするなら、神が自分の思
い通り、期待通りに動いてくれな
かったら、遅かれ早かれ失望し、
神の愛を疑い、神から離れる事に
なる。形だけは礼拝していても、
心には何の喜びもない。得るもの
が無いのだから。しかし、神を神
として信じ、何を得ようと得まい
と、神との交わりを目的として歩
むなら、何があっても平安と喜び
を失う事はない。あなたは「何の
ために」信仰していだろう?欲し
いものを得るための手段だろうか。
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私達は一体なんのためにクリスチ
ャンとして生きているのだろう。
常に真実であられる神様の御側に
近づき共に歩む人生をより豊かな
ものにするために、今一度よく自
分を吟味してみよう。