2007年02月21日(水)

『イエスは言われた「その石を取りのけなさい」』ヨハネ11:39


主がラザロがよみがえると言われた時、
マルタもマリヤも、世の終わりの事と
捉えていた。今、よみがえるなど、信
じられなかったのだ。信仰を、頭の思
いで捉えてしまう。思いの中での理解
と、生きた信仰とは別だ。「もし、信
じるなら、神の栄光を見る」と言われ
た。マルタは、墓の前で、死後4日に
もなり、もう腐っていると言った。こ
れは現実であり、理性であり、知識で
あり、常識だ。死んだ上に、腐ってい
る。だめ押しだ。これが、どうよみが
えろうか。知識と理性が邪魔をする。
私達は普段は5感で生きている。視覚
・聴覚・味覚・嗅覚・触覚にしっかり
頼っている。それは必要であり、毒物
を食べると死ぬし、目の前の危険をし
っかり把握しないと死に至る。身を守
るためにも余りにも深く依存している
ので、それで信仰を量ってしまうのだ。
5感で信仰を捉えようとする。だから
全くわからない。信仰は5感とは全く
関係の無い領域だ。信仰の領域は違う。
理性、知識、常識は「人間の思い」な
のだ。それらを捨てて、御言葉を選択
する時に、御言葉に立つ時に、「御霊
の思いはいのちと平安」を経験する。
5感はこの世で生きて行く上に必要だ
が、信仰は別の領域だ。その石を取り
除ける時、神の栄光を拝する。
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この世の価値観、この世の知識が死角
になる事を経験する。このためクリス
チャンになっても、長い間なかなか神
の事がわからない。思いを横に置いて、
御言葉の通りに信じてみることだ。