2008年03月25日(火)

「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:21



よく聞かないだろうか。信仰は弱い者
のする事で、現実逃避だと。しかし、
神無しに自分の弱さなど、誰も見る事
はできない。自分の内の闇は濃く、現
実は厳しく、自らの内側の問題は先送
りし、ふたをして、逃げて避ける。神
の愛と赦しのもとでなければ、自分の
醜さや弱さなど決して見ることは出来
ない。信仰者こそが、主の光の中で、
ありのままの自分を見る、現実に向き
合う事ができる。人が最も苦しむのは、
罪を犯す事ではなくて、犯した罪を隠
す事による。罪悪感で苦しむ事になる。
ダビデは姦淫と殺人の罪を隠していた
間、心はうめき、砂漠のようにカラカ
ラで非常な苦悶の中にいた。告白し
た時に、赦しを受け解放された。罪を
隠ぺいする事が、更に罪の上塗りとな
る。又、自らの弱さを認めないで、う
わべを取り繕って行く時、劣等感のと
りことなる。人は劣っているから劣等
感を持つのではない。自分の本当の姿
を認めないで、隠し、ごまかすところ
から来る。暗闇の世界だ。仮にどんな
に劣っていたとしても、自らのありの
ままの姿を認めて行く時、劣等感から
解放され自由だ。光の世界にいる事に
なる。自分の醜さ、弱さを認めるのは
勇気がいる。痛い事だ。見たくない。
「そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光より
もやみを愛した。その行ないが悪かっ
たからである」光の方に来ない事、そ
れがさばきだ。光のもとにおり続けよ
う。劣っていても平安と喜びだ。
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私達は本当の光を知っているから闇の
苦しみ、辛さがわかる。自分がすぐに
闇の方へと引っぱられてしまう弱い者
だとも知っている。だから真実に神様
に助けを求め祈ることができるのだ。
光の中を歩めますように。