2008年04月22日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

あるお話の中で、十字架に色々な種類
があり、自分が好きなものを選ぶとい
うものがあった。大きなもの、小さな
もの、綺麗なもの、ゴツゴツの木もの、
様々あって自分好みのもの、都合の良
いものを選ぶのだ。これは重いからイ
ヤ、これは美しくないからイヤ、これ
は小さすぎてもう少し大き目がよい、
あれもイヤ、これもイヤ、選り好みす
る。これは象徴的だ。神が下さるもの
を受けるのでなく、自分が選ぶのだ。
私たちも十字架を、自分好みのものを
選んでいるだろうか。神の御心ではな
く、自分の好みに従う。自分の好きな
事はするが、嫌な事はしない。御心で
あっても、都合の良いものには従うが、
不都合なもの、痛い事、しんどい事は
よける。自我に触れる事は、うまくす
り抜けて行くなら、信仰生活何十年に
なろうと成長がない。自我の強い、幼
児クリスチャンのままだ。十字架を負
うとは自分に死ぬことであり、神の御
心を行なう事だ。しかし、自我は反発
し、抵抗する。自分に死ぬとは、自我
には受け入れ難い、激痛を伴う事だ。
しかし、御心に従う時、必ず成長して
行く。そして平安と御霊の喜びを受け
る。主が下さった十字架を受け取ろう。
今、目の前に示されている御心がある
なら、勇気を持って一歩踏み出そう。
大きな祝福にあずかる。
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主が下さる十字架は、一人で背負って
歩むのではない。主が同伴され、負け
ないよう、くじけないように祈ってい
てくださる。避けて通っているものは
ないだろうか。今一度考えてみよう。