2008年10月25日(土)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



エマオに向かう二人の弟子に、復活の主が近づかれ、彼らのかたわらを歩か
れた。彼らは「暗い顔つき」であった。主のよみがえりを信じる事ができず、
エルサレムにとどまらず、なすすべなく、郷里に引き揚げる途中であった。

かたわらの主の語りかけに、彼らの答えは失望落胆であった。「力ある預言
者でした・・」「望みをかけていました・・」過去形であり、期待し望みをかけてい
た、だが、だめだったと。空虚と絶望だった。

それが、主が御言葉を話され、御言葉を解き明かされて行った時に、彼らは
どうなったのか。彼らの「心がうちに燃えた」。心に大きな変化が起きた。
力がなく、喜びがなく、暗く、沈み込んでいた心が、赤々と燃えて来た。
霊的に全く新しい状態にされた。

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え」とあるように、霊に燃えるとは、
外側が活動的になるという意味でなく、内側が聖霊によって新たにされ、
喜びや信仰、気力、希望が与えられる事だ。

よみがえりの主が、暗く沈んでいた弟子たちに、信仰の火を点じられた。
主の語られる言葉によって、私たちの沈んだ心も再び燃やされる。
「心がうちに燃える」時、周囲にも伝染させる。何があっても、どんな問題
にも、いつも信仰によって生きている人を見る時、どんなに励まされるだろう。
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何があっても、見えるところによらす、信仰によって生きて行きたい。
そのために、主はかたわらに来て語りかけて下さっている。自らの思い
を明け渡し、御声に聞く時、うちに心が燃やされる。