2009年05月24日(日)

「ヨナは、主のみ顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3


ヨナは神の命令に大不満だった。なぜあんな宿敵のもとへ。

逃げたい時には、なぜかそこに、丁度反対行きの船があるものだ。好都合に反対
行きの船があった。渡りに船、ヨナは逃げた。

嫌な事は逃げる事が出来たが、結局、それは主の御顔を避ける事になる。主との
間の平安を失ってしまう事になる。

信仰生活には、嫌な事、したく無い事、避けたい事があるものだ。肉は逃れてし
まいたい。幾らでも逃げる事はできるが、そして一時的な肉の解放感は得られる
が、決して御霊の平安は無い。

経験あるだろう。ある人が主の御心でないと感じつつ、高給と地位の誘惑に負け
て転職した。まず平安を失い、少しつづ主から離れ、全く離れてしまった。感謝
な事に悔い改めて立ち返る事ができたが。

信仰生活のすべてが、神の配剤にあり、必要ゆえに与えられている。それを通し
て砕き、成長させようとのご計画がある。

人は自我の固い殻があり、したい事だけをしたいものだ。放っておかれると、自
分の好きなように生きる。肉だ。しかし逃げるなら成長を逃す。

今、目の前に、逃げたい事態があるか。ヨナは自分中心にしか見ていないため、
神の心がわからなかった。しかし、自らの自我に気づき、悔い改めて、主の器と
して用いられた。逃げるか、それとも向き合って主に従うか。選択だ。

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嫌な事から逃げるなら、主の御顔を避けることになる。しばしの肉の解放感はあ
るが、平安を失う。逆に、肉はしたくないが、主に助けを求め従うなら、何にも
代えられない平安と喜びに満たされる。平安の中で、主の御顔を仰いで行ける。