2009年06月20日(土)

「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」マタイ17:17

不信仰とは、信仰が不足していること、少し足らない事ではない。不信仰とは、
神を無視し、自分の力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。

つまり、自分を神として生きることだ。自分自身と自分の人生の主導権を自分が
握って生きること。車の運転席に、自分が座って運転することであり、自分の思
い通りに生きることだ。しかし、そこに平安はない。

不信仰とは、自己実現、自分の利益のために、神を利用することだ。自分のため
の神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも軸が自分にある。不信
仰とは信仰を無視し、否定する事だ。

信仰とは、自分の思いを捨てて、神の判断、知恵、神の心を求めて、神に頼って
生きることだ。 自分は助手席に座り、主に運転席に座っていただく。

自分自身と自分の人生を、主に明け渡して生きることだ。信仰によって生きて
行く時、大きな変化は、自分の損得でなく、自分の利益ではなく、神のお心を求
めるようになる。

神が喜ばれることを求め、それが自分にとって不利益であり、損になろうと、従
って行く。損得の価値観でなくなる。これは大きな違いだ。

自分にとって何が都合良く、何が楽かではなく、神が何を喜ばれ、神の願いは何
かに、軸と視点が変わる。その時、自分自身は必ず、御霊の喜びと平安、真の心
の満たしを
経験する。
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不信仰の時は、自分が肉にいる。この世的見方で見ていて、必ず自分中心になっ
ている。主に焦点を向ける時、信仰に転じている。信仰にある時は、深い安堵感
があり、自分になされる主の働きが楽しみであり、わくわく感があり、喜びがあ
る。