2010年05月24日(月)

「ペテロがイエスに言った。『たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません』」マルコ14:29

ペテロは、全員が主を裏切っても自分は大丈夫。自分は決して裏切らないと豪語した。「私は」どこまでもついて行く。死に面したとしても、「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」大丈夫。ペテロは自分の弱さを知らなかった。

自分に自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中、眠り込んでいた。

主はご自分の姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、弟子たちが一緒に祈ることを願われた。弱さを認められ、祈りに持って行かれた。

弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され「立ちなさい。さあ行くのです」と厳然と十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。自覚がないゆえ、祈りが無かった。

主は弱さを自覚され、祈られた。眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要が無い。自分の弱さは見たくない、認めたくない。しかし、自らの弱さを認めて、祈りに持って行くことこそが、勝利の秘訣だ。
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自分の繰り返す失敗は何処から来ているのか、自らの弱さを御言葉からしっかりと示され、頼るべき所など自分にはない事を覚え、祈ろう。砕かれ弱いと認めた時に私達は主にあって強くされる。