2010年06月23日(水) 「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」ヨハネ21:6
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」ヨハネ21:6
主が復活されて、弟子たちはすでに主に会っていたが、テベリヤ湖で、ペテロが 「私は漁に行く」と言うと、他の弟子たちも従った。ペテロは、以前漁師であり、 漁は、お手のものだった。 しかし「その夜は何もとれなかった」。かつてのベテラン漁師であり、漁のあら ゆる知識と経験を駆使したが、雑魚一匹とれなかった。ここに私たちの姿も重な る。主が見えない時、自分の力で、方法で、自分で何とかしよう、対応しようと 動き回る。 自分の経験、考え、力、自分から出たもので、そこに網をおろしたが、そこに神 の祝福はなかった。骨折り損のくたびれ儲けのごとく、虚しく空回りしてしまう。 私たちも、問題に対して、自分の思いと力で動くなら、そこに結実はなく、解決 は無いことを学ぶ。 虚しい労働に、疲れ果て、かつてのプロでありながら、何の成果も得られず、惨 めな弟子たちに、主は現われ、網を右に下ろせと言われた。自力で、やってみた がどうにもならず、砕かれ、無力を思い知った弟子たちは、従うことができた。 岸から聞こえる声に従った時、網を引き上げられないほどの大漁だった。本来、 魚のいない時間帯だ。私たちも、自分の思い、肉の方法でなく、主の御声に従う 時、大きな祝福にあずかる。「網を右に下ろす」とは、御言葉を信じて、握り締 め、御言葉に立つ事だ。 今、主の導きがわからず、自分で漁をしようとしていたら、立ち止まり、御声を 聞こう。愛の主がじっと見守っておられ「右に下ろせ」との導きが臨む。 ・・・・・・・・・・・・・・ 御声に無条件で従った時に、大きな祝福にあずかった。人間的な思いが「意味が あるのか?」「無駄」「無理、出来ない」とさえぎって来ても、主が語られた言 葉に、信仰もって従う時、奇跡を見る。自分が変えられる奇跡を発見する。