2010年07月24日(土)

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ヨハネ20:27


主は弟子たちに幾度も、「苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」と語ら
れた。しかし、弟子たちは信じていなかった。ローマ帝国を倒し、主が王となり、
この世界を支配し、王国を樹立されると思い込んでいた。

そのため十字架など言語道断、有り得ない事であった。だから信じないし、受け
入れない。何度も復活を予告され、実際、死からよみがえられた主は、弟子たち
にご自身を現された。

しかし、それを伝え聞いた弟子たちは全く信じなかった。仲間の言う事を信じな
い。「お姿をよく見た、と聞いても、信じようとはしなかった」「ふたりの話も
信じなかった」主ご自身がその弟子たちに現れて、「不信仰と頑なな心をお責め
になった」。

トマスは、「主を見た」との仲間の証言にも、手の釘跡を見、釘穴と脇に手を入
れなければ信じないと言った。何と猜疑心の強い、頑なな者と思うだろうか。し
かし他人事ではない。自分の姿かも知れない。

偏見や自分の思いが真実を見る事を妨げていないか。又、見たなら誰でも信じる。
見たなら信仰は要らない。見ずに信じるから信仰だ。何でもかんでも信じ込む盲
信 や狂信ではない。しかし、神を信じるには、神がどのようなお方かをよく踏
まえ、信じようとの意志と決心が必要だ。それ無しに信じる事は出来ない。

よく心の底を探ると、信じられないのでなく、信じようとしない頑なな心がある。
どうだろう。信じるには、信じようとの意志を向け、選択し決心する事だ。する
と、御霊が信じる事ができるように助けて下さる。

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心の底を探る時、信じようとしない自我がある。御言葉を信じない自我に行き着
く。状況や自分の思いのほうを信じている。「愛している」「守る」「導く」
「必要を満たす」まず信じない自分に気づき、認める時、変えられる。信じよう
として行く時、信仰が与えられる。