2010年10月24日(日)

「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです」ヨハネ7:6

「兄弟たちもイエスを信じていなかった」とある。兄弟達こそ毎日、主を見てい
た人たちだ。御言葉を聞き、様々な奇跡を目の当たりに見た。弟子たちより、更
に身近かにいた兄弟たちこそ、一番主を信じたはずでは、と思うがそうではない。

彼らは主を信じなかった。心の目が開いていないなら、どんな奇跡を見ても、神
を認めることはない。しかし兄弟たちも主のよみがえりの後、主を信じ弟子とさ
れた。

「わたしの時」とは、主の十字架の救いを成就する時だが、主にとってすべてに
「時」があった。神の時に従って生きられた。「あなたがたの時はいつでも来て
いる」とは、時は自分の所有物とばかりに、自分の自由きままに、好きなように
使っているということだ。

神の時というものは存在せず、自分の思った時が時であり、自分の意のままだ。
そこには「自分の時」があるだけで、「神の時」が見えない。神がどんなにみわ
ざをしておられても、見えない。神と共に生きる生き生きとした喜びも感動もな
い。

目が開かれるように、神を認めることができるように、祈ろう。日々の日常の中
に、神の「時」を見い出させて下さる。あの出来事、この出会い、この事とあの
事の関連の中に、丁度ピッタリのタイミングで働いておられる、神に出会う。喜
びが溢れる。

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神を見上げ、「神の時」がある事をわきまえよう。神の時をじっと待つ必要があ
るかも知れない。それは「神の時」であり、「自分の時」ではない。「自分の
時」だけに目が行っていないだろうか。厳粛に神の時があり、委ねておれるとは
何と平安だろう。