2011年05月24日(火)

「いつも喜んでいなさい」Tテサロニケ5:16 


             
主は「いつも喜んでいなさい」と言われるが、私達は何を喜んでいるだろうか。神の下さる祝福、神の与えて下さるものを喜んでいるか。それは確かに嬉しい。しかし、いつも、与えられるものにだけ目を留めているなら、もし、それが与えられない場合はどうだろう。必ず不平不満、欲求不満に陥る。そして、神を責めて行く。

自分の思い通り、願い通りにならなければ、神に反抗し、神を疑ってかかる。すぐに不信感を抱く。今まで何度も経験あるだろうか。あなたがいつも目を留めているのは、何だろう。神の下さる祝福であり、与えられる「もの」だろうか。
それなら、どこまでも祝福を追うばかりで、どれだけ与えられても決して満足する事はない。欲望というものは決して満たされる事はない。更に渇いて行く。

それは与え主である神ご自身を求めていないからだ。私達が喜ぶのは、祝福ではなく、祝福の与え主である神だ。もし、神ご自身を喜んで行くなら、自分の思い通りにならなくても、又、もし願ったものが与えられなくても、失望する事は無い。決してない。与えられるものでなく、神ご自身を見ているし、信じているからだ。

だから、思い通りにならなくても、自分にとって更に良い道を備えて下さっていると信じて行く。あなたの信仰態度はどうだろう。弟息子のように、父ではなく、父の財産を貰って、父のもとを離れて行くだろうか。何を喜んでいるのだろう。心を探ってみよう。
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上手く行けば祝福、そうでなくても御心と我慢する。天から降ってくるものをただ文句言わずに受け取るだけで、与え主ご自身に目が向いていないと気づかされる。神ご自身を喜び交わりを感謝して生きるなら毎日が祝福であり喜びの連続だ。