2011年11月23日(水)

「イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9



パリサイ人たちが姦淫の場で、捕らえられた女性を、主のもとに連れて来た。主をためし、告発の理由を得るためであった。律法によると姦淫は石打ちの刑だ。石打ちにするなら、主の愛の教えに反してしまう。しかし見逃すなら、律法違反になってしまう。どちらになっても、パリサイ人には主を訴える理由となった。

明らかな悪意であり、主を陥れようとの目的であった。主は身をかがめ、指で地面に書いておられたが、問い続けて止めない彼らに「罪の無い者が、彼女に石を投げよ」と答えられた。女性に投げた石が、自分に返って来た。主の言葉で、自分の姿が映し出された。

罪がわかったので、彼らはその場から逃げ去った。自分の姿を見た。しかし、主のもとから逃げた。姦淫の女性は、逃げずにそのままそこにいた。その時、主から全き赦しを受けた。「わたしもあなたを罪に定めません」。

私たちはどうだろう。御言葉に自分の姿を照らし出され、自分の罪を示される。認めるのは辛い。プライドが許さない。醜い姿を見るのは痛い。言い訳を探して、自分を正当化したい。自分のせいではない、相手が悪い、環境が悪いと。

しかし、逃げないで主のもとにとどまり、自らの罪を認めよう。その罪は赦され、造り変えられ、主の深い愛を知って行く。
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罪は認めても逃げていては何も変わらない。主のもとにとどまり主の赦しを受けよう。とどまり続ける努力をしよう。その中で主が御心に造り変え、豊かに養って下さる。