2012年08月24日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある人が、職場でどうしても、うまく行かない相手がいた。話すと、意見が合わず、ギクシャクし、相手にトゲを感じる。段々、話す事も苦痛になり、その事を祈りに持って行った。すると、相手の欠点ばかりが目に付き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。相手を嫌い、責め、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、実はトゲを出していたのは自分だった。

丁度「高慢」についてのメッセージがあり、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」主の姿に、自分の高ぶり、自我、愛の無さを示された。悔い改め、へりくだる事を祈った。へりくだりたいと心を向けていた。そんな時、相手と仕事の事で話をしていた時、相手との関係が変化している事に気づいた。自分が変えられていた。

自分がへりくだろうとして祈る時に、主が対人関係に働かれる事を見せられた。柔和に対話でき、トゲが消えていた。こちらが心を開き、変わったので、相手も変わってしまった。対人関係は、どちらかが変わると変わる。悔い改めて、主に拠り頼む時、主はそこに働かれ、みわざをされる。あなたも今、へりくだるよう示されているだろうか。
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人はどこまでも自分が大切で自分、自分だ。自分でへりくだることは出来ない。自我を捨て、自分を低く出来るよう、主の道に従えるよう祈り求めたい。