2014年02月21日(金)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24



私たちの人生は、主によって定められるとある。自分の思い通りに行くわけではない。「人間はどうして自分の道を理解できようか」とあるように、思いを越えた、想定外の事が起きる。私たちは、現在が見えるだけで、将来は全く見えない。しかし、自分には見えないが、歩みを定め、導きの主がおられると信じるなら、私たちはどんなに平安に歩めるだろう。

すべてが自分の願い通りになるわけではないが、今の願いや気持ちを受け止め、知っていただける。そして自分の思い通りにならないとしても、自分にとって最善を成して下さる主であり、信頼してお任せできる。何と安心だろう。アブラハムも主の示しに従い、どこへ行くかを知らずに、出て行った。先の事は全くわからなかった。しかし、一歩、一歩と示されて歩んで行った。

アブラハムの生涯には、色々な出来事があった。時には手痛い失敗もあった。しかし、先は見えないが、目の前の一歩を主に従って行った時、その歩みは導かれ、祝福され、大いなる者とされ、ヘブル11章の信仰の人々にその名を連ねている。信仰の生涯を全うし、主に喜ばれた。

私たちには、目の前にいつも二つの道がある。自分の思い通りに歩む道と、主の御心の道だ。アブラハムのように、主の示された道に歩むには、自分を捨てる必要がある。しかし、それは主の喜ばれる道であり、信仰によって進んで行く道だ。そしてどんな想定外の事が起きようと、主に頼って歩める平安な道だ。自分主導でなく、主によって導かれているのだから。
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自分で決められない明日を自分一人で歩んでいるから平安がない。主の最善、恵みを信じ一歩でも自分の思いを捨てて主に従ってみよう。迷っているようでも主の導きの中だ。