2014年04月23日(水)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」ガラテヤ5:25



私たちの、生まれつきの性質は、神の言葉に従おうとしない。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」。神に従うどころか、反抗するとある。

心の内を見ると、自分の思いが中心にあり、自分の思い通りに生きて行きたい。「主の」思い通りでなく、「自分の」思い通りに。好きな人は愛するが、嫌な人は嫌っていたい。主の喜ばれる事をするより、自分の好きな事をしたい。これが肉の思いだ。しかし、新しく生まれた私たちには、新しい性質がある。罪を悲しみ、主に従い、御心を行ないたいと願う。そこに葛藤が生じる。

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」この二つは対立していて、そのためしたいことが出来ないと。心は苦しくなる。その解決が「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とある。

御霊によって歩むとは、御霊により頼んで歩むことであって、御霊は信仰生活を一歩一歩導かれるので、その導きに従って歩むことだ。そして、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあって、愛があり、喜びや平安がある時は、御霊に導かれている。反対に「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・・」がある時は、肉に従っている。肉の行ないがあるなら、悔い改め〃従って行こう。それは御霊による歩みだ。
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肉の思い通りに歩んでいれば幸いだと思うが、肉の行いを選んでも真の平安がない。今日も多くの選択が目の前に来るだろう。肉の思いを振り切って、御霊の導きを選んで行きたい。