2014年06月23日(月)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14


パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った。祈りの言葉は心の
内を表わす。パリサイ人の関心は、「人」であった。人にどう見ら
れるかで、そこに神は無い。取税人は、人はそこに介在せず、ただ、関心は「神」であり、神だけを見上げていた。神と自分の関係だけであり、神意識だけだ。そこに人は無い。

パリサイ人は、「神よ」と言いつつ、神ではなく、人に向かい、人
に対する自己意識だけだ。人との比較であって、つまりはそこに
「自分」があるだけだ。取税人は、神の前の自分を意識するので、
光があって自らの罪が見えて、罪を認めている。御霊に罪を示され、悔い改める時には、人は見えない。神と自分の間で、自分の罪が見えるだけだ。そして、その罪は完全に赦される。無罪放免とされる。

パリサイ人は人と比較して、自分を量る。自分の罪の基準が、人に
よる。だから罪認識が無い。それゆえ悔い改めも無い。このように
サタンは神から私たちを離すために、常に、人との比較に引っ張る。御言葉の光でなく、人との比較で、自分はどうなのかを見せる。人より優るなら優越感、人より劣れば劣等感となる。真の罪認識に至る事が決してない。神に向かわない限り、人は罪を知る事はできない。罪が赦されるのは罪人だけだ。罪をも、人との比較で見ていないだろうか。
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主に心を向けて祈るなら、例え自己正当化している祈りであっても
御霊の導きの中で、自分の罪が示されて悔い改めることが出来る。
言葉にならないうめきであっても主にしか解決がないと絶えず主に
向き、祈ろう。