2015年01月24日(土)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26


弟子たちの舟が着いた先で、また群衆が来た。パンの大いなる奇跡
を見た人々も、主を追いかけて来た。舟の着いた場所の群衆たちも
集まって来た。それらの人々に、主は、あなたがたはしるしを見た
からでなく、パンのゆえについて来ていると言われた。

つまり彼らは、その奇跡が何を示す「しるし」が何であるかを悟る
ことができず、主がどんな方であるかを全く理解していなかった。
当時の人々は、自分たちをローマ帝国の圧政から救い出し、王国を
建ててくれる人物と思い込んでいた。

主は、自分たちの都合のために主を求める人々に「パンを食べて満
腹した」だけだと指摘された。彼らが主を求めるのは、信仰を求め
てではなく、パンをくれる方であり、嵐から守り、病気をいやして
くれる方、そんな奇しいみわざを行ない、与えてくれる方、自分の
欲望を満たしてくれる方だからだ。

しかし、パンをもらったとしても、又、空腹になる。病気がいやさ
れても、又、病気になる。嵐をしずめられても、又、嵐は起きる。
奇跡は一時的に、私たちを救ってくれる。しかし、一時的なものに
すぎない。主が彼らに与えようとされたものは、「なくなる食物で
なく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」だ。永遠に朽ち
ない平安、喜びだ。

それを得るためには「神が遣わした者を信じること」だと言われた。
主は信仰を求めておられ、信仰を喜ばれる。主は様々な奇跡を通し
て、主への「信仰」を持つことを願われ、主を信頼して生きて行く
ことを願っておられる。

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パンを、何かをもらえるからついて行くのであれば、思い通りにも
らえないと、離れてしまう。ついて行く意味が無いからだ。そうで
なく、主は「わたしが命のパン」と言われた。どんな時にも主を信
頼して生きて行く時、主とひとつだ。真の喜びが来る。