2015年12月24日(木) 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって・・」黙示録3:20
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって・・」黙示録3:20
当時、住民登録のためにそれぞれ自分の故郷向かう旅行者たちで、 宿屋はごった返していた。そのため部屋は満員であった。「宿屋に は彼らのいる場所がなかったからである」、臨月のマリヤとヨセフ のための部屋が無かった。又、非常事態の彼らのために、部屋を譲 る人も誰一人なかった。救い主の誕生に皆が無関心で、主を迎える 人が誰もいなかった。私たちはどうだろう。 主のご降誕を迎える時に、心はどこに向いているだろう。この世界 の関心事で、忙しさで一杯だろうか。求めているものは賞賛、富、 仕事、この世のもの、自分の事だろうか。又、思い煩いや自らのプ ランで一杯だろうか。又、忙しい奉仕で一杯だろうか。主のための 余地が無いだろうか。御父はこの世界に救い主を送られたが、世に は御子をお迎えする「場所」がなかった。皆が自分の事で一杯だっ た。しかし主はそんな私たちのまっただ中に、救いのために来て下 さった。 人間には、誰しも、誰にも言えない場所が心の隅にある。決して人 に言えない心の場所を持っている。主はそこに来て下さり、そこで 出会って下さる。あなたの悲しみ、あなたの孤独、誰にも言えない 苦しみ、その場所に来て下さる。そこではっきり主に会える。問題 は、私たちが心を開いて迎え入れるかどうかだけだ。今日、心はど こを向いているだろう。心を開いて、その部屋に主を迎え入れよう。 ------------- 主の御降誕により与えられた光は、罪を暴き、悲しませるためのも のではない。露にされては困るとしっかり押さえ込んでいるだろう か。今一度、主の光に心柔らかく応答しよう。そして主をお迎えし よう。