2016年02月22日(月)

『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた「よくなりたいか」』ヨハネ5:6



ベテスダの池で、病で38年伏せっている人に、主は目を留められ
た。そして「よくなりたいか」と問われた。長年になると、気力が
失せてしまい、よくなる事を諦めてしまう。又、38年も病気だっ
た人が、突然、健康体になったならどうだろう。今まで、人はやさ
しく同情してくれ、伏せったままで良かった。

しかし当然働いて、社会生活をして行かなくてはならない。仕事を
探し、住まいを探し、突然様々な責任が生じて来る。今まで伏せっ
ていた者にとって、大きな喜びの反面、非常に厳しい現実が待ち受
けている。私たちにも、主は「よくなりたいか」と問われる。今ま
で何度やってもダメだった。これからも失敗すると諦めているだろ
うか。

自分の内にそんな部分があるだろうか。よくなるために、自分の弱
さを直視したくない、惨めさを認めたくない。痛くて突き詰めたく
ない。あいまいにしていたい。従って行こうと決心するなら、払う
べき犠牲に気づいている。その犠牲は困る。そのため、よくなりた
くないのだろうか。このままでいたいのだろうか。

「よくなりたいか」は、あいまいな部分に光が当てられ、意志を探
られる。主は、今、問うておられる「よくなりたいか」。長年、引
きずっている心の重い問題、悩み、そのところを解決に導いて下さ
る。主に向き合い、自分に向き合う時、真の喜びを経験して行く。
-----------
決して満足はしていないが、どうせ駄目だろうと現状維持のままに
しているものがある。自分の内には力は無いが、「よくなりたいで
す」と主の前に差し出し、積極的な祈りの課題に変えていきたい。