2016年09月23日(金)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16



主が十字架にかかり、復活したにかかわらず、郷里エマオにとぼと
ぼと向かう二人の弟子たち。心は失意落胆、挫折感と絶望状態だっ
た。そこに主がかたわらを歩かれ、話しかけられるが、主が全く見
えない、わからない。なぜ見えないのか。主はその原因を「愚かな
人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」
と、信じないこと、「不信仰」によると言われた。

弟子たちは主の復活を信じていなかった。だから、主が見えなかっ
た。しかし、そんな不信仰な弟子たちを、放っておかれず、主の方
から近づかれた。そして何をされたかと言うと、聖書全体の中で、
ご自分について書いてある事柄を解き明かされた。復活を信じる事
ができるのは、御言葉による。

「信仰は聞くことから始まり、聞く事は、キリストについての御言
葉による」。弟子たちは主が解き明かされる言葉をしっかり耳をそ
ば立て聴き入った。すると段々、心が燃えて来たのだ。その内に、
別れ道に来たが、もっともっと聞きたくて、主に一緒に泊まって下
さいと、無理に願った。せがんだ。

すると主は、その求めに応じ、一緒に来て下さった。そして、彼ら
の目が開かれ、主イエスだとわかった。同じように今も、私たちと
共に歩んで下さっている。そして語りかけ、御言葉を解き明かし、
不信仰を信仰に変えて行って下さる。
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自分の思いや期待の声ばかり聞きたく気がつくと目の前の状況にし
がみついている。主の御声をくりかえし意識して聞きたい。想定を
はるかに超えた主の御言葉は、再び信仰を熱くしてくださる。