2016年12月24日(土)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3



これは獄中書簡で、この時パウロは牢獄の中にいた。獄中から信徒
に手紙を送っている。ユウオデヤとスントケに、主に在って一致す
るようにとの勧めがなされているが、ピリピの教会の中は、様々な
トラブルがあった。そこに必要な事が、「自己中心や虚栄からする
ことなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う
こと」だった。

「自己中心」は自分の事ばかりで、相手の事を考えない。「虚栄
心」は、自分の栄光を求めることだ。どこまでもただ自分だ。それ
は虚しいことだと。自己中心と虚栄心は、一致を壊して行く。「い
えいえ私などは」と腰を低くするが、もし本当に「そうですね。そ
の通りですね」と言われたらどうだろう。恐ろしい事になる。

表向きのへりくだりであり、実は、けんそんな人と見られたい虚栄
心であったりする。ある人が、仕事の成果で、同僚が褒められると、
どうしても自分がけなされたように感じてしまう。自分はだめだと、
又、もっと成果を出せと批判されているように感じる。自分は全く
関係ないし、けなされてもいないのに。しかし妬みが起きて、苦し
くてたまらない。祈っていると、自我、虚栄心を示された。

絶えず人と比較していて、人が基準になっている。人との差異で自
分を量っているから、何かあるとすぐに平安が、かき乱され、劣等
感や優越感となる。「自分」が、中心の高慢から来ていた。「へり
くだり」を祈りとして、まず祈りに持って行けることが感謝だった。
最近の、心を暗くするあの事、この事・・自己中心や虚栄心から来て
いないだろうか。気づきから始まる。

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自分で、自分の姿はわからない。御霊の光に照らされて初めて、自
分の心の奥底が見える。光で照らし出されたものは、見えるので祈
りに持って行ける。祈りに持って行く時、主の取り扱いにあずかり、
みわざを見て行く。