2018年01月24日(水)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3


主は、盲人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように言われた。
シロアムの池はエルサレムから1キロほどだそうだが、目の見えな
い人が行くのは大変な事だ。もし初めての道なら、どんなに困難な
事だろう。更に池は下って行かねばならない。「そこで、彼は行っ
て、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、決して出来ない事
だ。

又、信じないなら、はなから行かないだろう。しかし彼は、主に言
われた通りにした時に、見えるようになった。ここからが問題で、
パリサイ人達が、安息日に癒したと、主を批判し、彼も連行され尋
問された。この男性は、彼らにありのままを話した。パリサイ人達
は、主を信じないが、しかし目の前の男性が、目が開いた事実は否
定出来ない。

「あの人を何だと思うのか」と聞かれ、その男性は「預言者」と答
えた。男性は、主が誰なのか、よく知らなかったが、預言者でなけ
れば不可能だと思った。パリサイ人達は、彼の両親を呼び出して、
本当に生まれつき盲人なのかと確かめた。再度彼を呼び出し、主が
罪人である事を認めるよう迫った。

が、彼は盲目であったのが、今は見えるという事実に、神でなけれ
ば、そんな事は不可能だと言い切った。会堂から追放された彼に、
主がご自身を現わされた。彼は「主よ。私は信じます」と信じる者
にされた。そして主を礼拝した。霊の目が開かれ、真の救いを得た。
これこそが、神の栄光であった。
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心配事や災いがあれば何が悪かったのか、誰の過失かと原因を探し
てしまう。原因ばかりに気を取られず、災いと同時に主が見せよう
とされている神の栄光があると、そこをしっかり見つめていよう。