2018年02月21日(水)

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2:21


「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあるが、邪悪
な良心とは、何だろう。良心とは良い心であり、良い心が邪悪とい
う事になって不思議だが。ここでは、主の十字架の血潮だけでは、
心が満足できず、それだけでは足らないとして、そこに行ないを付
け加える。つまり、自分の善行によって、主に受け入れてもらおう、
愛されようとする事だ。

もし、主の愛を得たくて、受け入れて欲しくて、奉仕をし献げもの
をするなら、それは人間の力によるものであり、主の十字架を無意
味にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法
によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」
だ。主はいたずらに、無駄に死なれた事になってしまう。

良心のとがめが辛いので、良心のとがめを無くしたくて、奉仕や献
げもの、善行、親切をしているだろうか。善行で、良心のとがめを
無くしたい。それを邪悪な良心と言っている。例えば、人を傷つけ
る言葉や不機嫌な態度で、良心のとがめを感じると、優しく親切な
行ないをして、自分の内で帳消しにする。何か良い事をして、良心
をなだめる。

これなら「キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」事になる
と。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私たちの
良心のとがめを消し去る。完全に消し去る。平安を与えられ、真心
から神に近づくことができるようにされる。主の血潮以外のものに
依存しているなら、きよめていただこう。
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十字架の血潮によって罪赦されているのに、実際の生活ではや行い
の足りなさを嘆いたり、また行いで安心したりする。主の十字架以
外に自分の価値を測ろうとする不自由があるなら祈って行こう。