2018年03月24日(土)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます『ダビ デの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた」マルコ10:48



バルテマイは目が不自由で、こじきだった。人々から物乞いをして、
それにより生活していた。金銭を、物を、恵んでもらって生きてい
た。だから、主に「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時に、
生涯不自由なく生きて行ける金銭を求めても不思議はなかった。し
かし、主に求めたものは、金銭ではなく「目が見えるようになるこ
と」だった。

それは、この方にはそれができるとの信仰があったからだ。それが
なければ、はなから求める事はしない。彼には信仰があった。その
信仰は「私をあわれんでください」との叫びとなった。彼を黙らせ
ようと、大勢にたしなめられても、黙るどころか、ますます叫び立
てた。

もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、求めもしないし、
ましてや叫び続ける事など出来ない、しない。彼は必死だった。今
のこの時、このチャンスしかない、これを捕らえなければ、一生に
二度と機会は無いと全身で叫んだ。ザアカイも同様だ。今を逃して
もうチャンスは二度と無い、木にまで登った。

もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、又、ザ
アカイは一生虚しい何の喜びもない暗い日々が続くだけだと、絶対
にこのままでは帰れなかった。主はその切なる叫びに、答えて下さ
った。肉体の目も、心の目も開かれて、主について行った。

私達はどうだろう。この求めがあるだろうか。得ても得なくても、
どっちでもよいのだろうか。又、諦めているか。彼は何も出来なか
った。唯一「あわれんで下さい」との叫びだけができた。この求め
を、主は待っておられる。そして喜んで答えて下さる。

・・・・・・・・・
「私をあわれんで下さい」と、主のあわれみを求めるのみの、自分
では何も出来ない状況がある。「あわれんで下さい」の祈りに、主
は答えて下さることを経験する。徹底的に無力な者を、主は愛して
下さっていることを知る。