2018年06月23日(土)

「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合う ためです」Tコリント12:25



人の弱さが見えた時、試されるのではないだろうか。ある人が、職
場で、ペアで働く相手は多くの時間を共に過ごし、密接な関係にあ
るゆえ、どうしても相手の弱さが見えて来る。その時、心の中で、
責めて、裁いてしまっていたと。アドバイスしたり、補ったり、共
に負ったりするのではなく、まずいら立ってしまい、心で責めて、
怒りとなり、イライラするばかりで、平安が全く無かったと。

自分のプライド、自分の罪を見せられるのだが、同じ事を繰り返し
ていた。又、それは家族に対しても、そうであった。自分の事は棚
上げで、家族の弱さが見えるとイラ立ってしまい、思いやり、サ
ポートするのではなく、裁いてしまう。そんな自分の姿が見せられ
て、主の御前に祈りに持って行った。ことごとく主に告げて、日々
に祈りを重ねて行った。

そんな中だったが、ある大きな試練が与えられた。それは涙で祈る
日々で、いかに自分の力を誇っていたかが初めて思い知らされた。
砕かれ、へりくだらされた。プライドも打ち砕かれた。無力で、自
分の力が何も無い事を認めた時に、初めて真に主に出会えた。十字
架が迫り、自分がこのまま受け入れられ、愛されていることが実感
としてわかった。新たな感謝と喜びが溢れた。

そして自分が変えられた事が発見できた。以前は裁きまくっていた
が、相手のために祈ろう、何か自分に出来る事は、の姿勢に心が変
えられていた。キリストのからだが、各器官が劣ったところをいた
わり合うために与えられているように、家族に対しても、相手の弱
さは、責めて裁くためでなく、補い合うために、与えられていると
教えられた。

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人は皆、それぞれ弱さがある。又、その弱さも、それぞれ異なる。
主と御言葉が無ければ、さばいてしまう。だが、主と御言葉に立つ
時、それはいたわり合うため、補い合うためとなる。相手の弱さを
自分が補い、又補ってもらえるなら、そこに分裂は無い。