2018年08月24日(金)

「主の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」箴言15:33




謙遜と言えば、何を思うだろう。「いえいえ、私などは」と控え目
に後ろに下がり、腰を低くする事のように思える。だが、そうでは
ない。口では「いえいえ、私などはつまらない者です」と言いつつ、
心の中では、そう思ってなくて、自らを高めていたりする。謙遜と
は自分の罪を示された時に、心底認めて行く事だ。

サウルがサムエルの命令を守らず、良いものを惜しみ、値打ちの無
いものだけを聖絶した。その罪をサムエルから示され、サウルは、
弁解しながらも、罪を認めた。そして赦しを乞うた。しかし言った
のだ。「民たちの前で面目を立てて下さい」つまり、民達には知ら
れたくないと。これは謙遜ではないし、真の悔い改めではない。

真に、神の御前に悔い改める時、人の前や体面など見えない。ただ
ただ主の御前に、自分の罪だけが見える。人など入る余地はない。
そして、その罪は赦され、全き赦しを受け取り、新しくされる。謙
遜とは悔い砕かれた心だ。神は決してそれを軽しめられない。ダビ
デがナタンから罪の指摘を受けた時、心が砕かれた。罪を告白し悔
い改めた。

「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」と赦しが与えられ、
恵みが降り注がれた。謙遜は自らの罪を認める。高慢は自分の失敗
をも周囲のせいにする。高慢は自らの罪を認めない。自分が間違い
を犯したなどと決して認めない。だから赦される事もない。

ダビデはナタンに耳を傾けた。高慢は人の助言を聞かない。御霊は
罪を指摘される。心頑なにせず、聞き入れ、悔い改める時、赦され、
豊かな恵みにあずかれる。
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一日でも罪を犯さず、聖くいることは出来ない。人は言ってくれない
事も御霊は示してくださる。心を低くし、主からの知恵や訓戒を求め
る生き方を続けよう。