2019年07月24日(水)

「だから彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、 あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知ってお られるからです」マタイ6:7


主は、祈る前にすべての必要をご存じだと。何と感謝な事だろう。
では何のために祈るのか。御父がすでにご存じであれば、祈る必要
が無いではないか。これは異邦人のように、同じ言葉を何度も〃繰
り返し、言葉数が多い者勝ち、時間が長い者勝ちではない。その発
想が間違いだと。祈りの言葉数、時間量の多い順に聞かれるのでは
ない。数と量が事を決めるのでない。それなら力の勝負になる。

主と私たちの間は「信頼関係」にある。だから言葉の繰り返しは無
益だ。偶像と違い、御父はすでに何もかもをご存じで、くどくど説
明する必要もない。しかし主は次の節で「だから祈りなさい」と言
われた。だから祈る必要ないのでなく「祈りなさい」と。主は祈り
を喜ばれる。

祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯の必要を完全に保障する
から、いっさい語るな」と言う親はいない。親は子供の言葉を聞き、
対話したい。気持ちを知りたい。それは親は子供を愛していて喜び
で楽しみであるからだ。御父はあなたの声を聞きたいと、交わりを
待っておられる。

又、主は必要をご存じだが、私たちが自分の必要を知らない。真に
必要なものをわかっていない。的はずれに求め、自分の欲のために
求めて気づかない。主はそれらを祈りの中で、軌道修正し、正しく
導き、本当に必要なものを求めさせて下さる。その結果、与えられ
て、そして自分自身をも変えて行って下さる。

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まずは必要をご存じでいて下さることに安堵が来る。霊的、物質的
必要をとにかく祈りに持って行く時に、祈りの中で様々教えられた
り、気づきが与えられる。動機を探られ、自我にも気付かされる。
祈りが変えられて行き、そして御心にかなった答えが与えられる。