2019年09月23日(月) 「イエスは、ご自分ではしようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6
「イエスは、ご自分ではしようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6
主は、ご自分では、しようとする事をすでに決めておられた上で、 ピリポに「どこからパンを買って来ようか」と問いかけられた。す るとピリポは「200デナリのパンでは足りない」と答えた。人間的、 常識的判断だ。手元の金額と人々の入り用を計算すると「足りませ ん」が答えだ。ところがアンデレは、何か食物を持っている者はい ないかと、群衆の中を探し回った。 そして小さな弁当を持っている子供を見つけ連れて来た。それは五 つのパンと二匹の魚であった。これは、あるいは、主が何かして下 さるのでは、と思ったのか。「あるいは・・しかし、こんなに大勢 では何になろう」主への期待と、しかし大勢過ぎて無理・・の思い が交錯する状態だった。 だが、主はこのアンデレの行き来するような信仰を用いて、この奇 跡をされた。ここで学ぶ事ができる。「足りない」との判断は、自 分を軸にした見方に立っている。それを自分軸でなく、主を軸にし た視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力が無い、費用が無い ・・だからダメ、それはあくまでも自分の視点であり、しかし主は どうだろう。 自分には出来ないが、主には出来ないだろうか。人に出来ない事が 主には出来る。まさに主はその信仰を求められていた。こんな微々 たるものが何になろう、焼け石に水、役に立たないと思うだろうか。 だがそれを主のもとに携えるなら、それを用いて、驚くべきみわざ をして下さる。 ---------------- すぐに自分の能力を見て判断してしまうが、主を見つめていくこと が信仰だ。自分には出来ないが主から何か示されていないだろうか。 主が働かれると信じ主に応答していこう。