2020年04月23日(木)

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた」」申命記8:3 

        

「主は、苦しめ、飢えさせ」とあり、他でもない、主が「苦しめ」
「餓えさせる」と言われている。信仰人生で、種々の悩み苦しみに
出会う。他の人は幸せそうなのに、自分は、たまたま苦しみにあっ
たように感じてしまう。「何で?」と。又、人との関わりでの苦し
みは、相手のせいにしか思えない。相手が〜〜だから、こうなって
いると。そして「何で?」と別の悩みに襲われる。

信仰するなら、祝福して下さるはずではないのか。その祝福とは、
病気にならず健康で、商売は繁盛で、畑は豊作で、受験は合格と思
っているので、病気やけが、不作、不合格、経済的苦境、嫌な対人
関係は、祝福されていないと思ってしまう。しかしたまたまでなく、
「主が」あなたを苦しめ、飢えさせ、とある。

それは、人はパンだけで生きるのではない、主の口から出る御言葉
で生きることを、あなたにわからせるためだと。人は順境の時には、
主を求めず、自分で生きて行く。頼る必要が無いからだ。主を頼ら
ずとも、自分の力で十分やって行けてしまうからだ。どんな時に主
を心底頼るのだろう。自分の力ではどうにも出来ない時だ。

無力の極みの時こそ、主にすがる。だが「あなたの着物はすり切れ
ず、あなたの足は、はれなかった」、どんな中でも完全に守られる。
そして「ついにはあなたを幸せにする」、必ず良い地に導き入れら
れる。苦しみの時には天からのマナがあり、主を深く知って行く時
とされる。
------------
慰め、平安をくださいと祈る事しかできない時に不思議と今まで味
わった事のない平安が与えられる。逃れようのない苦しみとしか見
えなかった目が神中心に変えられている。主のお取り扱いを思う。