2020年09月23日(水)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、 悪い動機で願うからです・・世を愛することは神に敵することである ことがわからないのですか」ヤコブ4:3



時に、祈りがなかなか答えられない事を経験する。祈りは学校であ
り、祈りとは、様々な経験を通して学んで行くものだ。最初からよ
く祈れるわけではない。むしろよくわからない中で、実践の中で、
少しづつ学ばせられて行く。

祈りには原則があり、御心にかなう祈りが答えられるとある。御心
でない祈りは、幾ら祈っても答えられない。これも祈りの中で経験
する。つまり、御心にかなった祈りを知るために、祈る事になる。
しばしば自分の思いのままに祈るのだが、祈りの中で、自らの祈り
が軌道修正されて行く。

主の栄光ではなく、自分の欲望で祈っていて、自分でも気づかない。
だが祈りの中で、そんな動機に気づかされ、祈りが変えられて行く。
御霊に助けられ、自分も変えられ、御心にかなう祈りへと、導かれ
て行く。自分自身の姿が見せられ、砕かれ、整えられて行く。

ある人がイベントのために祈り、アイデアが浮かんだ。良い案で御
心を確信し、進めるのだが反対があり、ギクシャクし思うように行
かない。一致が得られない。何とかしようとするのだが、事は進ま
ない。イラ立ちを抑えきれず、主の前に静まり、祈った。

すると心の内を照らされた。確かに主に導かれた企画だが、意見を
異にする人々を良く思わず、腹を立て、対抗心を持ち、何が何でも
遂げようとする、内に潜む強い自我に気づかされた。主が飛んで、
自我で押し進めようとしていた。心から悔い改め、自分自身も企画
も、今一度、主の手にゆだねた。

するとその後、不思議に、事が前に進み、実現して行ったのだった。
祈りの中で、私たち自身が変えられ、成長へと導かれる。

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祈りは、祈りの中で学ばされ、教えられて行く。形の違う答えが与
えられているが、気づいていないかも知れない。祈りっ放しでなく、
経過や、答えもよく見張っていよう。動機も御霊が教えて下さるの
で、そこにも目を留めていよう。祈りの中で、主を知って行く。