2021年01月24日(日) 「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテ ロ2:19
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテ ロ2:19
御言葉は、信仰者には試練があり、苦しみを受けると言っている。 キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみを賜っ ていると。しかし自分の罪や落ち度で、争いになり、苦しむのは迫 害ではない。信仰ゆえの苦難ではなく、信仰以前の問題だ。誰でも 人に迷惑をかけるなら非難される。 だが自分の落ち度ゆえでなく、キリストゆえに受ける苦しみがある。 御言葉がそう言っている。今の日本では、信じたからと言って、殉 教する事はないし、公安に連れて行かれる事もない。私達なら、信 仰ゆえに仲間はずれにされ、悪口、嘲笑、侮蔑、無視の対象になる 事かも知れない。信仰ゆえに、家を出なければならないかも知れな い。 しかしキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。返ってその事 のゆえに神を崇めよと。義のために迫害されるなら幸い、理不尽に 悪口雑言を言われるのは幸いだと。喜べ、喜びおどれと。ある人が 家族が信仰に反対で、辛い事が起きた。思わず家を飛び出し、教会 に行った。 「異邦人の中にあって、立派にふるまいなさい」「不当な苦しみを 受けながらも・・悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです・・ 善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは 神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのため です・・」 牧師からの御言葉により、祈りにより励まされ「帰ります」と、新 たに力を受けて、帰って行った。主のゆえ、信仰ゆえのものである なら受け取ろうと、心が変えられた。 ・・・・・・・・・・・ 自分にも非があり、落ち度があるなら、相手と争いが起きて当然だ。 だが時に、理不尽な、不当な苦しみを受ける事がある。それを主の ゆえに忍耐して行く時、主に喜ばれると。十字架を負われた主に従 う事であり、それが証しとして用いられて行く。